俳優が黙ったあとも、私の仕事は終わらない。――映画の音を整える舞台裏

スマホで撮った動画を再生して、「こんなにうるさかったっけ?」と思ったことはないだろうか。
話しているときには気にならなかった車の音。やけに元気な隣のテーブル。風が吹くたびに、画面では伝わらないほど盛大に鳴るゴボゴボという音。
撮りたかったものは映っている。でも、聞きたかったものがよく聞こえない。
映画やドラマの撮影でも、音の悩みはある。もちろん、スマホ一台で撮るのとは録り方が違う。それでも、撮影が始まったからといって、街全体が静かになってくれるわけではない。
その録音を受け取り、声や周囲の音を整えて、作品として自然に聞けるようにする。私が生業にしている「整音」は、そんな仕事だ。
今日は少し、作業画面の中を覗いてもらおうと思う。
二人の会話なのに、音は何本も届く
映画の音と聞くと、大きなミキサーの前に座って、ずらりと並んだつまみを操る姿を想像するかもしれない。確かに音の仕事らしい風景だ。ただ、そのつまみを動かす前にも、かなりやることがある。
まず、手元に届くものからして、普通に再生して楽しむ動画とは少し違う。
スマホで撮った動画は、通常、映像に付いた音をまとめて聞く。一方、映画の撮影では、複数のマイクで録った音が、それぞれ別の素材として残されていることがある。
俳優の服に仕込んだ、小さなピンマイク。画面に入らない位置から、長い棒を伸ばして声を狙うマイク。
この長い棒が「ブーム」で、その先に取り付けるマイクには「ガンマイク」と呼ばれるものなどが使われる。撮影風景で見かける、頭上に浮かぶふさふさした物体。あれは謎の小動物ではなく、風よけを付けたマイクだったりする。
例えば二人の会話なら、二人それぞれのピンマイクと、頭上から狙ったマイクに、同じ台詞が違う聞こえ方で入っている。
口との距離も違えば、拾っている周囲の音も違う。服に付けたマイクなら、声が近く録れていても、衣服がこすれる音が気になる場合がある。
プロ用のマイクだから、欲しい声だけが完璧に録れる、というわけではない。いくつかの録り方で、使える音を確保している。
こうした素材が、編集された映像の時間に沿って並んだ状態で届く。案件によっては、画面には何十段もの音のレーンが並ぶ。これを「トラック」と呼ぶ。
何十段あるから、現場にマイクが何十本立っていた、という意味ではない。場面や素材を分けて配置するので、段数も増える。横に時間が流れ、縦に音が積み重なる、音の時間割のような画面を想像してもらうと近い。
観客には何気ない二人の会話でも、こちら側では、まず「どの音を使おうか」から始まる。
つまみを上げる前に、聞き比べる
声が小さいなら、音量を上げればいい。
それで済むこともある。ただ、声と一緒に車の音まで大きくなったら、車の存在感を増しただけになってしまう。
そこで、別のマイクの音を聴いてみる。こちらは言葉がよく聞こえる。でも途中で服がこすれている。もう一方は周囲の音が多いけれど、声の響きは自然だ。
どの素材を使い、どこを直すか。全部を大きくして足せば解決、とはいかない。
私の場合、まず素材全体を整理し、特殊な対応が必要なケースでなければ、シーンごとの下処理に入る。最初から作品を通して観るより先に、場面ごとに、やや緩めの処理を進めていく。
そのときの基準は、初めて劇場で観る人にとって、違和感なく聞けるかどうかだ。
撮影場所の事情を知らなくても、台詞がすっと入ってくる。周囲の気配もあるけれど、変なところへ耳を持っていかれない。そんなバランスを探している。
ソフトを使い分けても、最後は何度も聴く

作業には、複数のソフトウェアや音声処理の道具を組み合わせて使う。
映像に合わせて音を並べたり、つないだり、音量を調整するためのもの。録音に混ざった不要な音を、細かく処理するためのもの。それぞれに役割がある。
音を直す、といっても、大きさを変えるだけではない。問題のある短い部分を選んで処理し、前後とつなぎ直し、映像と一緒に再生する。処理前と聴き比べ、やりすぎたら戻す。
道具はずいぶん頼もしい。ただ、「この声は主人公なので残して、後ろの人の声だけ消してください」というこちらの都合が、いつでもきれいに通るわけではない。
以前、NHKのドキュメンタリーで、居酒屋の会話シーンを担当したことがある。聞かせたい会話に、スタッフやほかの席の声が激しく混ざっていた。
数分の場面に、三〜四日かかった。
居酒屋なら、何回か営業日が変わっている。こちらは、まだ同じ会話を聴いている。
絡み合った音声をどこで切り分けるか。どこまで処理すれば、必要な声を傷めずに済むか。試して、聴いて、映像で確認する。その繰り返しだ。
余計な声が減ったと思ったら、今度は残したい声が不自然になっていることもある。「消えた、成功!」と喜ぶには、少し早い。
ソフトを使った作業なのに、実際にやっていることは、かなり手探りなのである。
映画の収音マイクは画面の外まで律儀に録る
厄介なのは、人の声ばかりではない。
例えば、画面には映っていない川や側溝の水音。現場にいれば「すぐそこに水が流れている」で済む。でも、観客にはその水辺が見えない。
二人が話している後ろで、何かがずっと流れている。録音は間違っていないのに、映画として見ると気になってしまう。
アーケードの商店街も難しい。撮影時には雨が降っていても、画面には雨が見えないことがある。それでも、マイクには雨音がしっかり入っている。
映像からはわからない天気を、音だけが律儀に報告してくる。
こういう音は、簡単には取り除けない。軽減しようとして台詞まで傷んでは困るし、処理には限界もある。
しかも、水音を減らしたあとに、別の水音を足すことまである。
消すのか、足すのか、どっちなんだと思うかもしれない。こちらも好きで遠回りしているわけではない。
背景を強く抑えて台詞を取り出すと、声の周りの空間まで不自然になることがある。カットが切り替わったところで、背景の音が急に変わり、継ぎ目が目立つ場合もある。
そこへ別の水音をなじませ、途切れた感じや、処理の不自然さを和らげる。
目指しているのは、水音ゼロという記録ではなく、普通にその場面を観ていられる状態なのだ。
俳優が黙っても、こちらは休めない
台詞がなくなれば、少し楽になると思われるかもしれない。
ところが、声がなくなると、それまで気にならなかった物音がよく聞こえる。
スタッフが動いた音。遠くのエンジン。通りかかった人の話し声。サイレン。
例えば、登場人物が言葉をのみ込んだところで、画面の外の誰かが元気に話していたらどうだろう。観客の耳まで、そちらの会話へ出かけてしまうかもしれない。
だから、その台詞のない時間がどういう場面なのかを考えながら、背景音を整える。
ここでも、何でも消せばいいわけではない。背景を取りすぎると、急に人工的な感じになる。部屋にいるはずなのに、声だけが宙に浮いているようでは落ち着かない。
私は、声の響きや輪郭が歪むほどの処理はしないことを基本にしている。ただ、もともとの環境ノイズが強い素材では、聞きやすさと自然さの間で悩むこともある。
背景音は、その場所の気配であり、人物の心情ともつながっている。何を残して、どれくらい聞かせるかで、場面の印象が変わる。
俳優が黙ったあとも、私の仕事は終わらない。タイトルにすると少し格好がつくけれど、実際には「このエンジン音、気になるな」と、また再生している。
気づかれないように、何週間も働く

長編映画を手がけていると、マラソンのように感じる。
一つの場面を整えて、次へ進む。また気になる音を見つけて、処理して、確かめる。それを何週間も続ける。
観客は、その音を普通のものとして聞く。
「いまの背景音のつながり、丁寧だったな」と気づく人は、まずいない。
自分はいったい、誰にも気づかれないことに何週間使っているのだろう。そう思って、少し笑ってしまう。ちょっと切なくもある。
そんなとき、古いお寺を思い浮かべる。
毎日、僧侶が丁寧に磨き上げているからこそ、あの凛とした雰囲気があるのだろう。訪れた人は、今朝どこを何回拭いたかなんて知らない。それでも、きちんと手が入っている場所の感じは伝わる。
音も、そういうものだと思いたい。
台詞が聞こえて、場面の空気があって、そのまま物語を楽しめる。作業の跡には気づかなくても、手をかけた分は、きっと届いている。
そう思いながら、今日も音を整えている。
もし次に映画を観て、台詞のない場面でふと周りの音が気になったら、その向こうで同じ数秒を何度も再生していた人がいるかもしれない。
まあ、そのまま物語に夢中になって忘れてもらえたら、それも仕事がうまくいったということなのだけれど。
執筆:山川貴基|Hybrid Sound Reform 映画・ドキュメンタリーの整音、MA、ミキシングを担当。





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